前編まで ── 第1幕で $E=mc^2$ を両替レートと読み替え、第2幕で時空のいわば “最小の単位” $L_p,\ T_p$ を掴んだ。ここからは天井、そして120桁の怪物の中身へと進む。
宇宙の“天井”を、ひとまず決める
第2幕で、宇宙の底に触れた。プランク長 $L_p \sim 10^{-35}\,\mathrm{m}$ ―― 前編で見た、時空の“最小の単位”(証明された最小長さではなく、比喩としての、だ)。
次は天井。宇宙の“いちばん大きい側”の代表スケールを、同じ武器で探ってみよう。
ただし、ここで一つ問題がある。$L_p$ は、$c,\ \hbar,\ G$ という三つの定数だけから出た。宇宙を一度も測らずに、紙の上だけで。
だが、宇宙で一番大きい長さは、そうはいかない。定数だけからは出てこない。今度は一度、宇宙を測ってこないといけない。観測が必要だ。
測ってくる数字は、一つだけでいい。宇宙が膨らむ速さだ。遠くの銀河はどれも僕たちから遠ざかっていて、遠い銀河ほど速く逃げる。その「距離あたり、どれだけの速さで遠ざかるか」の割合が、ハッブル定数 $H$。単位は $[\mathrm{1/s}]$(毎秒)。
観測された値は、およそ、
さて、この $H$ を長さに両替する。手元にあるのは $H\ [\mathrm{1/s}]$ と、光速 $c\ [\mathrm{m/s}]$。この二枚で長さ $[\mathrm{m}]$ を作る道は、掛け算・割り算だけなら、またしても一つ。$c$ を $H$ で割る。
これがハッブル半径 ―― 膨張率 $H$ から作られる、宇宙論的な“代表サイズ”だ。数字の感触も掴んでおこう。$1/H$ は、桁で言えばおよそ宇宙の年齢(約140億年)ぐらい(ぴったり等しいわけではなく、たまたま近い)。その時間の間に、光が進む距離が $c/H \sim 10^{26}\,\mathrm{m}$ になる。
ただし、$c/H$ は「観測できる宇宙の端」でも「宇宙の壁」でもない。実際、僕たちはハッブル半径より遠くの銀河を現に観測しているし、いま光速を超える速さで遠ざかっている銀河の光さえ受け取っている(膨張する宇宙では「光速より速く遠ざかる」ことと「光が届かない」ことは別なのだ)。宇宙には、ハッブル半径のほかにも粒子的地平線・未来事象地平線など、考え方の違う“果て”が何本もある。$c/H$ は、その中でいちばんわかりやすい一本を、ひとまず代表に選んだだけ ―― 「ひとまず」だということを忘れないように。
ともあれ、役者は二本そろった。
時空の最小スケール $L_p$ と、宇宙論的な代表スケール $L_H$。片方は定数だけで、片方は宇宙を一度測って。
二つの端の比を取ってみよう。
右端に $L_H\sim10^{26}\,\mathrm{m}$(ハッブル半径)。その間に原子・人間・地球・銀河などが配置される。全体の幅は「約61桁」となる 〕
プランク長からハッブル半径まで、$10^{61}$ 倍 ―― 約61桁のひらきがある。この $10^{61}$ という数を、覚えておいて欲しい。次の幕で、鍵となるから。
120桁の、正体
この講座② [前編] の冒頭で話した、怪物の話を思い出してくれ。理論と観測が120桁ずれると言った。 ―― そのずれているものは何なのかを、はっきりさせよう。それは「真空のエネルギー密度」だ。
第2幕の最後で立てた問い ―― “空っぽの空間そのもの”は、エネルギーを持つのか? ―― に、現代物理は持ちうると答える。物質が一個もない真空にも、そこに“時空がある”というだけで、エネルギーが宿りうる。その密度が「真空のエネルギー密度」だ。そして、宇宙を加速させているダークエネルギーの最も標準的な候補が、この真空エネルギーだと考えられている。
問題は、このたった一つの量を見積もるのに、窓口が二つあって、答えが食い違うことだ。そう、第1幕から君に覚えておいてもらった、あの手法 ―― 一つの量を、二つの窓口から覗く。今度の二窓は「理論の素朴な見積もり」と「観測」だ。
(以下、密度は $c^2$ で割った“質量換算密度” $[\mathrm{kg/m^3}]$ で表示する。エネルギー密度 $[\mathrm{J/m^3}]$ が欲しければ、$c^2$ を掛け戻せばいい。)
窓口 B / 理論の素朴な見積もり(量子ゆらぎ)
量子場の考え方では、空っぽの真空も静止していない。あらゆる場が絶えず微小に震えている(零点ゆらぎ)。真空は、沸騰している。この震えのエネルギーが、宇宙の最小の升目 $L_p$ に存在しているとする。升目一つが背負うエネルギーは、第1幕①の $E\sim\hbar c/L_p$(プランクエネルギー、約 $2\times10^{9}\,\mathrm{J}$、質量換算で $m_p\sim2\times10^{-8}\,\mathrm{kg}$)。それを升目の体積 $L_p^{3}$ に詰めると、
$\rho_{\text{理論}} \sim \dfrac{m_p}{L_p^{3}} \sim 10^{96}\ \mathrm{kg/m^3}$(素朴にもとめたプランク評価。超高密度)
窓口 A / 観測(ダークエネルギー)
いっぽう、現実の宇宙を測る。宇宙は加速膨張していて、その加速を生んでいる真空のエネルギー密度(ダークエネルギー)を、観測から逆算できる。答えは、スカスカだと出る。
$\rho_{\text{観測}} \sim 10^{-26}\ \mathrm{kg/m^3}$(同じく質量換算)
同じ「真空のエネルギー密度」。理論の窓口は $10^{96}$、観測の窓口は $10^{-26}$ と言う。理論は「真空はこれだけ濃いはずだ」と予想し、観測は「実際にはこれだけしかない」と報告してくる。両者を割り算してみる。
$122$ 桁。これが史上最悪の予測、120桁のバケモノの正体だ。2桁さえも誤差になるくらい圧倒的だ。素朴に見積もった真空の濃さが、これだけ現実と食い違う。物理学者はこれを見て、半世紀以上、頭を抱えてきた。
だが ―― ここで、第2幕と第3幕を思い出してほしい。
僕たちはもう、時空の最小スケール $L_p$ と、宇宙論的な代表スケール $L_H$ を握っている。その比は、さっき手に入れた $L_H/L_p \sim 10^{61}$。そして、
$122$ 桁のギャップは、無秩序な巨大数なんかじゃない。ハッブル半径とプランク長の比の、ちょうど2乗として書き直せる。
桁で言えば $(10^{61})^2 = 10^{122}$、ぴたりだ。
ただし、はっきりさせておく。これは“解けた”わけじゃない。巨大なズレを、宇宙論的な長さとプランク長の階層(比)として書き換えただけだ。答えはまだ出ていない。それでも ―― 無秩序に見えた120桁に隠れた構造があると分かったのは、大きい。
紙1枚と、三つの定数と、宇宙を一度だけ測った数字。それだけで、君は史上最悪の予測を、きれいな“比の2乗”に書き換えるところまで来た。計算技術で最先端に並んだわけじゃないけれど、 ―― 最先端が“何を問題にしているか”、その入口に触れた。
――と、胸を張りたいところだが。
ここで立ち止まれる学生だけが、本物だ。
ズレは「長さの比の2乗」で書けた ―― でも、この $2$ という乗数は、何を意味しているんだ? 試しに、宇宙を $L_p$ の升目で埋め尽くしたときの“升目の個数”を数えてみよう。それは体積の比、つまり長さ比の3乗 $(L_H/L_p)^3 = 10^{183}$ になるはずだ。ところが、実際に出てきたズレは $10^{122}$ ―― 升目の“個数”(3乗)ではなく、まるで宇宙を包む“面”の広さ(2乗)のように振る舞っている。
この2乗に、物理的な意味を与えられるだろうか? ―― これが本物の問いだ。そして、この問いに一つの答えを出そうとしているのが、後編で会う考え方になる。
そしてもう一つ。君はさっき第3幕で、宇宙の代表スケールを $L_H = c/H$ と、ひとまず選んだ。ハッブル半径・粒子的地平線・未来事象地平線 ―― “果て”の候補は何種類もあったのに、我々は、ひとつだけを選んだ。……本当に、それでよかったのか?
この二つの引っかかり ―― なぜ2乗なのか、そしてひとまず選んだ、あの長さ ―― の中に、何十年ぶんの難問と、君を待ち受けている沼の入口が、静かに隠れている。
紙1枚で、君は最先端に追いついた ―― ように、見えた。
でも、その答えは ―― まだ、誰も知らない。
〔 後編:でも、その答えは誰も知らない ―― へ続く 〕
零点ゆらぎは、実在する
「空っぽの真空が震えている」なんて、詩的な言い回しに聞こえるかもしれない。だが、比喩じゃない。金属板を2枚ぴったり近づけると、板の間と外で真空の“震え方”に差が出て、板が実際に引き合う(カシミール効果)。真空のゆらぎが実在することの、動かぬ証拠だ。ただし注意 ―― カシミール効果が測っているのは、境界条件によるエネルギーの“差”であって、「真空エネルギーの絶対値が、そのまま重力を生む」ことまで測ったわけじゃない。その絶対値がどう効くかこそ、宇宙定数に関する未解決の問題そのものだ。
そしてもう一つ。升目 $L_p$ まで足して $10^{96}$、という「$10^{96}$」は、いちばん素朴なやり方の答えにすぎない。本当の宇宙定数問題は、この巨大な値を、別の項(裸の宇宙定数や量子補正)で120桁ぶんも精密に打ち消さないといけないという“不自然さ”のほうにある。ここを真面目にやろうとした瞬間、物理学は泥沼に足を踏み入れる。この記事が“桁だけで戦う”のは、その泥沼を横目に、ゴールの場所だけ先に探れるからだ。そこに何が潜んでいるかは、後編で覗く。






